深層森林

アニメーター崩れのはぐれエンジニアによる雑記

宇野常寛とカジサックの件で思ったこと――あるいは宇野常寛の"罵倒芸"について

はじめに

 ブログを始めて最初の長文エントリがこの件なのも、ちょっとなんだかなーという気がするんですが。

 まあ、タイムリーだったし、わりと長く読んできた評論家の件だったので。
 文中敬称略です。

 

要点

  1. 今回の途中降板については、宇野常寛に同情的
  2. すべてをカジサックの責任に帰するのも違うと思う
  3. 宇野が「イジリ芸」を批判することには違和感がある

(1)今回の途中降板については、宇野常寛に同情的

 2019年2月3日の「ホリエモン万博」というイベントで「芸人カジサック(=キングコング梶原雄太)から、失礼な絡みがあった」ということで評論家・宇野常寛が途中で帰ってしまったらしい。
 宇野は事の顛末について、ツィッターで報告している。下記参照。

 

 まず、この件については、私は宇野の途中退出という行動に同情的。
 芸能人でもそうだけど、現場に行ってみて、聞いていた話と違うということはあり得るだろうし、そこで降板するという判断は無しではないと思う。(場合によっては、その後、それなりの責任を果たす必要はあるにせよ)
 何より彼が傷ついたのは事実だろうし、他人からは些細に見える事柄でも、当人にとっては重大な事柄ということも、よくあることだ。いじめではないけど、自分も多少はそういう自分の気持ちが伝わらない経験をしている。

 

 このツイートの文言については、全面的に一般論としては(※傍線部追記)同意する。
 職場や学校など、人間関係の場で貶められ、苦しんでいる人は逃げていい。

 (ただ、これをTVのバラエティーショーはすべて悪、みたいな話にまで敷衍するのは違うと思う)

 

※追記

 「全面的に同意」と書いてしまったものの、同意できるのはあくまで一般論としてだったので、その旨追記。

 考えてみると、今回の件については「彼ら=イジメる側=カジサック」であり、「君=イジメられる側」に対して親密に呼びかける文体で書くことで、「これはイジメであり、僕は君らと同じイジメられる側の人間である」という印象付けを行っているようにも見える。

 宇野は「カジサック側」が公開した動画を「自分たちに有利なように編集」された「印象操作」と言っているけど、それはある意味「おあいこ」で、当事者自身の発信である以上、ツィッターなどで彼が発言している内容も、同様に「印象操作」になっている可能性は拭えないと思う。

 「宇野=正義、カジサック=悪と図式化するのは違う」というのが自分の見解。宇野=悪と言いたいわけでもない。

(2)すべてをカジサックの責任に帰するのも違うと思う

 なんとなく申し訳ないんだけど、芸人キングコング梶原がYoutuberカジサックと名乗っていたことを今回の件で初めて知った。
 そんなわけで別に好きだから擁護したいとかいう感情は皆無なんだけど、今回の件、「カジサックが悪い」と言い切ることもできないと思う。

 

 カジサックが宇野を「イジった」のは、芸人という役割で呼ばれている以上、観客や主催者は彼に何か面白いことをして笑いをとることを期待しているはずだからだ(何のために呼ばれたの?っていう話)。
 職務上、バラエティー的空間内での芸人は「何らかのアクションを起こせ」というプレッシャーの影響下にある訳だ。

 下記のツィートのように、カジサックの技量や人柄に帰着させるのは、若干違うと思う(それも要因の一つではあるんだろうけど)。

  ここでは宇野と相性が良く、力量があったとされる加藤浩次も、AbemaTVの番組で女性評論家と揉めて「パワハラ」「公開いじめ」と非難されている。

 いわばバラエティショーの構造的な問題であって、相性次第ではどの出演者にでも生じてしまう問題なんじゃないかな。特に芸人は先手を打って行動することを期待されるので、火の粉を被りやすいということなのでは。
 構造的な問題だとして、カジサックが、今度はネット上の空間でスケープゴートにされてしまうとしたら、それはそれで問題というか気の毒な話だろう。

 自分の見解としては、どちらかが決定的に悪いのではなく、不幸な事故であり、一方に強制的に責任を取らせることは、不幸の輪が広がるだけだと思う。

  じゃあ、どのラインで手を打てばいいのか、というのは難しいが、イベント主催者が謝罪したということで、その辺で話を収めるしかない気がする。トークショーの予定だったものが運動会になるという理由が、そもそも謎っていう感じですが。

 

 今回の件とは無関係で、昔の話(10年前!)になってしまうけど、バナナマン日村勇紀が、あるイジリに激怒したという話も示唆的だ。

 いじられ役の芸人だからという理由で、隠したいと思っていた私生活をメディアで公開されてもいいのか?
 笑わせる側も笑われる側も、とても大きなものを背負っている。
 だからこそ、エンターテイメント上、笑われることを引き受ける芸人は尊ばれるべきだし、むしろバラエティショー的空間を簡単に全否定はできないと考える。

(根本的には、「我々はなぜ人が貶されているところを見て笑うのか」「なぜ笑われるのは不快なのか」というような問題に帰着すると思うけど、そこまでいくと話が広がり過ぎですよね)

(3)宇野が「イジリ芸」を批判することには違和感がある

 自分が違和感を覚えたのは、上記で引用したイジメ被害者への力強い励ましを他ならぬ宇野常寛が言ったということだ。

 ――この人って、もっと口が悪くて他人を罵倒するタイプの評論家じゃなかったっけ?

 

 私は2000年代の初めから半ばごろ(「ゼロ年代」ね)、宇野が評論家として活動を始めるより以前、「善良な市民」と名乗り、『惑星開発委員会』というWEBサイト上で、ファミ通風のアニメ・クロスレビューを書いていた頃から、彼の文章を読んでいた。
 その頃の彼の芸風というか、一部界隈で物議を醸していた評論スタイルは、苛烈なまでの「イタいおたく批判」だった。

 当時の彼のサイトや、それに言及していたサイトの大半は消えてしまっている。なので私より若い世代が知らないのは、まあ当然なんだけど。

 

 しばらくネットを漁って、ようやくWeb Archiveに残っているのを発見した。

惑星開発委員会(宇野が主催していたサイトのトップページ)

惑星開発大辞典(上記サイト内のコンテンツ。作家・評論家などについての解説)

善良な市民のオタク黒歴史(上記サイト内のコンテンツ。ノンフィクション?)

 いや、すげー懐かしかった。なんだかんだ言って、いま読んでもおもしろい文章が多いと思う。「エヴァ現象」の項目とか。

 

 で、下記のイラストや文章は惑星開発委員会内の「善良な市民のオタク黒歴史」というコンテンツから引用したもの。
 文章もだけど、おそらくイラストも「善良な市民」こと宇野常寛が書いていると思う。

 

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 一言でいうと上の似顔絵のイメージそのものの男だった。
 ファンタジーRPGで言うと絶対に「ドワーフ」の役立ったが、本人は多分、「難解な呪文を使いこなす魔術師」くらいに思っていたのだと思う。まあ私に言わせればこのテのドラクエ系ゲーム・小説・マンガ・アニメetcの消費者なんてものは9割方「エルフのつもりのドワーフ」だったり「薄顔の勇者のつもりのキングスライム」だったり、「オーフェンのつもりのフランケンフェイス」だったり「ヤン提督のつもりのコンスコン」だったり「行きつけのバーで飲むオシャレな名前のカクテルのつもりの学校給食に出てくる納豆の蓋」だったりするのだが、この男は例えるならそういった「ビョーキのオトコノコ」の相場の全てを通り越した位置にあった。
 チビで寸胴でヒゲダルマで水虫で、一説によると真性●●で、それでいて気に入らないことがあるとすぐに周囲に怒鳴り散らすどうしようもない男だったが、こんなヤツでもグループにいられたのはコイツがいろんな場面で「でもコイツよりは俺ってマシだよな」という安心感を与えてくれる存在だったからだと思う。
(善良な市民(宇野常寛)『惑星開発委員会』「善良な市民のオタク黒歴史」より、2003年) 

 見ての通り、風刺的におたくの外見や言動を「イジって笑い者」にする文章だ。

 宇野より7、8歳年下の自分は『Kanon』も『Air』をプレイしていなかったし、直接宇野が罵倒している対象でもなかったが(押井守ファンで、どっちかというと趣味的には宇野に近いと思う。あ、『マリみて』はめっちゃ好きだったけど)、同じおたくとして、このような嘲笑の仕方は不快に感じた。

 自分を含めて、おたくのイタい言動が時に笑いを生んでしまうのは事実だと思うけど。

 

 また、2006年頃「転叫院」という人物が発表した、宇野常寛批判の文章がある。宇野責任編集の評論系同人誌『PLANETS』に参加していた人物だ。こちらも、元の文章は消えてしまっているよう。

 

惑星開発委員会の善良な市民(宇野)氏を批判する(WebArchiveへのリンク)

 

 こちらの論旨は主に宇野の論争方法についての批判で、今回の本題とはあまり関係ないが、ここで下記のような一文を見つけた。

彼(=宇野常寛:引用者注)は座談会やクロスレビューで頻繁に登場する「一生恋愛できないキモオタ」というのを仮想敵にする.「あの人たちは一生布団をかぶっていじけていればいいと思います」(PLANETS VOL.2 p81)と書いているように.
(転叫院「惑星開発委員会の善良な市民(宇野)氏を批判する」より、2006年)

  『PLANETS vol.2』が手元に無いので、宇野の発言は孫引きになってしまうけど。

 (転狂院は当のPLANETSに寄稿していた人物なので、間違いは無いと思うのだが。『PLANETS vol.2』持ってる方は確認してもらえるとありがたいです)

 でも、そうそう、このくらいの「イジリ芸」はやる人っていうイメージだった。

 

 「一生恋愛できないオタク」「一生布団の中でいじけていればいい」と言っていた(らしい)人が「誰かを貶めることでその「場」を都合よくまとめようとする奴がいる場所からは、今すぐに逃げた方がいい。」とまで言い切っていることについて、ちょっと驚いた次第。後者の文言について全面同意なのは、上で述べた通り。

 

 古い話を蒸し返すな、と言われるかも知れないけど、それこそイジメと同じで言った方は忘れてても言われた方は忘れないものだ。
 Togetterのまとめにも、当時の宇野を知っていると思われる人が同情できない旨のコメントをしている。

くらくも @kurakurakumo
私が知る限り、彼が過去のオタク侮辱弄りについて反省の弁を述べた事も、東浩紀相手に無礼な態度で論争ふっかけた事について謝罪した事も一切無い。自身が侮辱した人や傷つけた人や礼を失した相手のことを全て放置して、自分が被害にあった時だけ正義の戦いをしているように振る舞う態度の人間を「反省して考えが変わった」とみなすのは余りに都合の良いファンの贔屓目であろう。
Togetter「宇野常寛さんによる『ホリエモン万博で当日起きたこと』ツイートまとめ」、コメント欄より)

 はてなブログにも、私より先に書いている人が居た。

 これらの意見に全面的に賛成するわけではないけど、おそらく同様の違和感を覚えたのは事実。

 ちなみに罵倒芸を武器にするタイプの評論家は、実は私は嫌いじゃない(一番好きな評論家が山形浩生だし……)。
 なので、殊更に宇野を断罪したいとか、そういうわけでは無いんだけど。

 ただ、ビョーキのオトコノコとか、キモオタとかについて、今はどう思っているのかは聞いてみたい気はする(まあ、でも、自分が20代初期にノリで書いていた文章を40過ぎて読まされるのは苦痛っちゃ苦痛だろうし、 そこは若干申し訳ない気もするな……)。

 以上が、宇野常寛が(自分に対する)イジリ芸を批判していたことについての違和感。

 

余談

 今回、久々に古い記事を探してみて、ネット上で文書を保存しておくことの難しさを痛感した。
 「infoseek isweb」なんて、丸ごとなくなってるし……orz

 ただ、読み直すと当時の空気が思い出されて本当におもしろかった。
 できれば残しておいて欲しいものだと思う。

 

 「惑星開発大辞典」に記載のある、かの岡田斗司夫の発言なんかは、また、別の感慨を抱かずにはいられない訳で――。

オタキングは言う「<恋愛難民>が大量発生する原因は、みんな<恋愛>を高級なもの(「あなた一人を、いつまでも」というドラマチックな展開)と捉えているからだ」と。
オタキングは更に提案する。
「みんなそういう幻想は捨てて、もう誰とでも、何人とでも付き合ってみればいい」と。

余談の2

 投稿前に読み返して思ったこと。

 宇野常寛は口が悪いと書いてしまったけど、考えたら評論家ってだいたい口悪いよね……。

 山形浩生も、柳下毅一郎も、町山智浩も、宮台真司も、宮崎哲弥も、大塚英志も、大森望も、豊崎由美も、佐藤亜紀(は作家か)も、笠井潔も、小谷野敦も、呉智英も、蓮實重彦も、柄谷行人も、古くは小林秀雄坂口安吾も――。小林よしのり宅八郎は言うに及ばず。何らかの状況下では他人に罵声を浴びせてきたわけだし(本人も浴びてきているし)、まあ、それが仕事っていう話ではありますが。

 なので、宇野が特別に口が悪いわけでも無いかも。

 結局、おたくという単なる素人に対して人格否定まがいの表現を用いてしまったことが今日まで尾を引いているということで、今回のカジサックが評論家というバラエティ的な素人に対してイジリをしてしまったことに重なる部分がある気がする。

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